何かを仕掛ける為の

 何かを仕掛ける為の陽動というのはわかるが、何をするつもりだ。奥では呂軍師の隊が側面を窺う動きをしているな。魏の別動隊が脇を守っているが、双方精彩を欠くような動き。長いこと対陣していたから、そう感じる奴は恐らく戦で負けるやつらだ。まあ、俺の幕にもそういう参軍が居ないとは言い切れんのが現実ではあるんだがね。

 

 黙って戦闘を眺めること半日、いよいよ太陽が落ちていく。目立った動きは一切無し、それでも腕組をしてじっと見詰めるのみだ。夜襲……だろうな?

 

「島大将軍、お休みになられては?」

 

 隣の幕から参軍らがやって来て、


もう寝るようにと言上してきた。家長講座 ここに居たってやることはないんだから適切なんだよなそれは。

 

「そうだな、もう少ししたら休む。お前らももういいぞ」

 

 上官が居るからお先にと言いづらいだろうから、こちらから寝るようにと一言添えてやる。職場での上下、儒教面でのこともあり現代日本よりもそこは厳しい。

 

 ちらほらと赤いものが揺らめいているのが視界に入った。

 

「火の手が上がったな」

 

 ようやく動きをみせたか。だがあれではすぐに鎮火するだろうな。案の定燃え広がることは無く、火は直ぐに消し止められてしまったようだった。それでも夜襲を仕掛けたのは評価してやるべきではあるか。

 

 無言で幕を後にして寝所に入ることにした。数日は黙って見守る位の度量は必要だろうさ。

「基本として赤の旗指物は左所へ、それ以外は右所へ振り分けます」

 

「ふむ、応用としては?」

 

 簡単な理由での指示は推奨されるべきだ、例外がある場合についても聞いておくとしよう。

 

「顔の識別が出来ない者は赤旗でも右所へ回します。古参の親衛隊員が複数で幕の出入り口に勤務するようにしてありますので、誰かしら顔を知っているようにしてあります」

 

「旗揚げの時からのやつらが数十居るからな、そいつらならば今まで大体どこかで顔をあわせているわけか。人員の固定の良い部分とも言えるし、時に弊害を生むこともある。今回は良い部分が出たとしておこう」

 

 アナログな方法ではあるが、顔見知りが基本の親衛隊だ、赤い旗を持つ奴らはそういう背景があるからな。さて、観戦をするか。

 

 

 蜀軍は正面からじりじりと歩みを進めている、魏軍はそれをガッチリと受け止めるだけ。双方被害らしいもは殆ど無い、けが人は出ても死人は皆無という意味だが。本気で攻めるつもりは無い、取り敢えずはそう見えている。

「決戦は明日だ、俺は早めに休むとしよう。警備は他の奴に任せて、お前も自由にしていいぞ」

 

 振り向かずにそう言いつけるも、こいつは絶対に今笑っているに違いないと確信できた。遠回しの、半ば命令のような自由裁量の仕事に気づいている陸司馬、後で聞いたらやはり深夜まで起きて執務をしていたそうだ。全く、どいつもこいつも真面目だなと思うよ。

 

 

 遠くの平地で蜀軍が前進を始めるのが見えた、全面的にではないのが特徴と言えば特徴的だ。

 

「さて、始まったな」

 

 そう呟く。当然、動きがあったと伝令が駆け込んくるはずだが、一人としてここにまで貫通はしてこない。まあ定時報告や状況報告と変わらんからな。

 

「して陸司馬、伝令所の方はどうだ」

 

「はっ、現在左右二カ所で機能させております。左所を副幕として参軍の半数を詰めさせております」

 

 指揮下には無いが、参軍と比べれば陸司馬の方が遥かに高官だ、そういった素振りは殆ど見せないが、実はこいつは官職を上から並べて数えた方が早い。それもいわゆる高官、二千石以上を並べた時、そう限定しても上からの方が早い位に上位に居る。

 

「右所は?」

 

「同じく半数の参軍を詰めさせております」

 

「正副の違いはなんだ」

 

 そこにこいつの経験と才能が見えるはずだ、或いは適性とでもいうのかもしれんが。

 

「右所には首座に着飾らせた親衛隊の伯長を座らせてあります」

 沖田は

 沖田は、その高い背と、広い肩幅に細面の顔立ちの対比で、大分着痩せして見せているようだが、

 鍛えられた彼の逞しい身体は、こうして着流すと、襟の合間の分厚い胸筋や、歩くたびに覗く逞しい脹脛までは隠せない。

 

 (倒れそう、私)

 

 

 「冬乃ちゃん・・?」

 

 「え、あ、はい!」

 「動き止まってるよ」

 藤堂が何か気づくものがあったのか、

   苦笑しながら覗き込んできて、

 冬乃は大慌てで顔を上げた。

 

 「あのっ、兒童故事書 お二方もお夜食いかがですか?」

 

 「いいね」

 「有難い」

 冬乃の前で、沖田と斎藤が答える。

 

 改めて冬乃は、沖田の顔を見上げた。

 

 

 (逢えた・・)

 

 同時に、ここに至るまでの切望感や、先刻の出来事が、冬乃の胸内を駆け巡り。

 ほっとする想いに強く押される冬乃に、

 「どうしたの」

 沖田が微笑んで。

 

 「そんな泣き出しそうな顔して」

 

 「え」

 自分は一瞬にそんな顔をしていたのだろうか。

 冬乃は急いで首を振った。

 「よろしければ、おむすび冷めてしまう前に、・・」

 ごまかすように、皆を見回して促してみせる。

 

 「そうだ!急ごう!」

 原田が真っ先に声を挙げて、なんと駆け出した。

 (ええ?!)

 あっという間に遠ざかる原田の背を冬乃はぽかんと眺めた。

 

 「ぶっ、原田さんだけ急いでも意味ないのに」

 藤堂と沖田がほぼ同時に噴き出す。

 

 「追いかけましょう・・」

 冬乃は呟いた。こうなっては、原田の情熱を無駄にもできまい。

 盆には四角皿を被せて上から押さえているから、走ったとて、おむすびが飛んでいくこともないだろう。

 冬乃は、脚が絡まないよう、片手で着物の裾を前もってくつろげた。

 冬乃の掛け声に、というより冬乃の行動に、沖田達が驚いて見やる。

 

 「では」

 「え、って冬乃ちゃん?!」

 そのまま原田を追って駆け出していく冬乃に、男達が慌てて追いかけ出した。

 

 結局、皆して屯所内から八木邸内を疾走して横断し。

 途中すれ違った隊士たちに、ぎょっとされたものの、無事に八木家の離れまで各々辿りつく頃、

 先に着いていた原田が振り返り、疾走してくる冬乃達を目にして大笑いしたところへ、永倉が障子を開けた。

 

 「おいおい何事だ?」

 「おう、ただいま新八っちゃん!」

 原田が障子のほうを振り返って、出てきた永倉に片手を上げつつ、まだ笑っている。

 「冬乃ちゃん、健脚だね~!」 藤堂の感嘆した声が、原田の笑い声に交じった。

 「たいしたものだ、その着物でそれだけ早く走るとは」

 無口の斎藤にまで褒められて、冬乃は息をきらしながら嬉しくなって微笑んだ。

 冬乃の足腰の強さは勿論、長きにわたる剣の稽古のたまものである。

 

 「なんだおめえら、やかましい」

 帰っていたらしく土方が顔を出した。その後ろから近藤と山南も覗く。

 「おかえりなさい近藤先生、山南さん、土方さん」

 沖田がそれぞれに声をかけた。

 「おう、ただいま。しかし、どうしたんだ皆」

 「おむすび、冷めないうちにお持ちしたんです」

 近藤の問いかけに、冬乃がにっこりと答えた。

 

 

 

 

 狭い部屋に、皆で輪になって座りながら、夜食を囲む。まだここにいない島田と井上のぶんは取り分けてある。

 

 輪の外でお茶を用意してから立ち上がった冬乃に、

 「冬乃ちゃん、ここ座って!」

 藤堂が何故か、藤堂と沖田の間を叩いて声をかけてきた。

 

 まさか藤堂には、冬乃の沖田への恋慕が、すでにお見通しなのだろうか。

 おもわず頬を紅潮させてしまいながらも冬乃は、ありがたく藤堂と沖田の間に滑り込んだ。

 

 「この握り飯ね、具が入ってるんだよ!」

 「そうそう!」

 藤堂と原田がにこにこと宣伝する。 「具だと?」

 土方が訝しげにおむすびを見やり。

 「お口に合うかわかりませんが、・・よろしければ召し上がってください。おひとり二つずつご用意してます。こちらが梅干し入りで、」

 二つの皿それぞれを差して、冬乃は解説する。

 「こちらのほうが昆布入りです」

 「・・へえ」

 隣で沖田が感心したような声を挙げた。

 「いただきましょう、先生。土方さんも、そんな食わず嫌いな顔してないで」

 「うん、いただこう」

 近藤がにっこりと微笑んで、さっそく梅干しのほうへと手を伸ばした。

 それを皮切りに皆もそれぞれ手を伸ばし。

 

 「毒なんか入ってねえよな」

 皆が手に取ったなかで、土方がじっと冬乃を睨んで訊ねた。

 「入ってませんから・・」

 冬乃がもはや失笑して返す。

 「なら俺が毒見!」

 戯れて原田が真っ先に口へ放り込んだ。

 もぐもぐと数回、

 途端。

 「うめーーーーー!!!」

 叫んだ。

 

 「おお」

 近藤がそれを受けて、続けて手にしたおむすびを食して。

 「本当だ、すごく美味いよ」

 おまえも食べろ、と土方を向いて。

 近藤に促された土方は渋々、手に取った。

 

 皆の視線がおもわず注がれる中、土方が一口食べ。そして二口。

「何の御用でしょ

「何の御用でしょうか?いきなり入って来るなんて失礼ではないですか?」

「ノックはしましたよ?お仕事中に見えたので、わざわざ解除されるのも申し訳ないですし…これあるから。」

 

首から下げたパスを武藤に見える様に見せた。

 

目の前ノートパソコンを見たままで、武藤の表情は青褪めて見えた。

 

「私、言いましたよ。無言電話、また掛かって来たら武藤さんがしていると判断して動きますって。」

 

こちらを見ない武藤をしっかりと見て静かな声で倫子は言う。

 

「何の事か分かりかねますが…。」

 

倫子の方を見ずに、キーを打ちながら武藤は答えたが、動揺している様に見えた。

仕事をしていても、恐らくパソコンには意味不明な文字が打たれているのではないだろうかと倫子は考えていた。

 

「そう?必死過ぎて気付いてない?倫也さん、あの時、あなたの名前を呼んでいるわ。話も聞いたわ。状況っていうのかな?仮病を使ってまで倫也さんの部屋から電話したかったの?自分の名前は名乗りもしないくせに?矛盾してるわ。」

 

静かな声で武藤を真っ直ぐに見て倫子は言い、続ける。

 

「会社の電話を使用する事で会社の誰かと思わせたい、なのに自分だと知られたくない、その癖、私に対しては思いが通じ合っていると言う。矛盾だらけだわ。奪いたいのか奪いたくないのか、どっちかに決めてもらえない?」

 

「奪う?」

そこで武藤の顔がやっと倫子の方に向けられた。

 

「奪うって何ですか?私はただ会社での二人の時間を大事にしたいだけです!誰にもその時間だけは邪魔して欲しくない、それが奥様であってもです。奥様はご自宅で二人の時間があるでしょう?どうして会社まで来るんですか?私達の時間を邪魔しないで下さい!」

 

強い口調で言われて、倫子は大きな溜息を吐く。

 

「いや…あのさ?仕事ですよね?二人の時間ってどんな仕事してると思ってるんですか?スケジュール確認、秘書のお仕事、武藤さんのお仕事です。それ、二人の時間とか言いません、普通の秘書は。」

 

「あなたみたいな妊娠したから嫁になったみたいな子供に…何が分かるんですか?私達は大人同士の…心で通じ合う貴重な時間を大切にしているだけです!」

 

(……妊娠したから嫁になったぁ?)

 

ガタン!!

 

倫子が椅子を滑らせて立ち上がり、武藤の机の前まで行き、机に手をバン!!と着いた。「ふざけたこと言わないで!!子供出来たからって嫁になれる訳ないでしょ!苦労して子供が出来るのよ!あなた、世の中の妊婦に恨み買うわよ!!どっちが子供なのか分かんないの?」

 

肩で息をして大声を出すと武藤が数秒言葉を失い、反論しようとするとドアが開いて声がした。

 

「はい、新藤監査の奥様の方が正論!子供がいるから上とか独身だから負けとかそんな事は私も奥様も考えてないですけど、私も元妊婦だから今の言われ方は恨むわねぇ。」

クスクスと笑いながら、宇佐美がドアを開けて部屋に入って足を踏み入れた所だった。

 

 

「う、宇佐美さんまで何のご用件でしょうか?会議が終わるまでに作成しなければならない書類があるんです。お二人とも重要案件ではないなら…後にして下さいませんか?」

 

「あら?重要案件?お試し期間中の武藤さんに新藤監査が重要案件の作成を任せるとは思えないわ。本当だとしても遅くなるならお手伝いしますからご心配なく。花上に頼まれて私が会社内で動いていたの。」

 

「動いて…どういう意味でしょうか?」

 

武藤の今までとは違う低い声が響き、宇佐美と倫子は顔を見合わせた。

 

「具合悪くなった日、武藤さん、私が来て舌打ちしたわよね?聞こえたわよ?それで心配する新藤監査に送って下さいと言おうとした。私が先に送ってあげるわよ?と言ったから、ここに戻るしかなかった。ヨロヨロと具合の悪いフリはしてたけど…大根だったわねぇ。無言電話の証拠、見つけたから。あなたが犯人だって新藤監査には勿論、社長にも報告します。その前に自分から全てを話して反省してもらえるなら社長に報告後も私がフォローをします。奥様にその様にお願いされたので…どうします?」

 

宇佐美が話し終え訊き返すと、武藤が強く下唇を噛むのが見えたが、暫く俯いた後、顔を上げて二人に自信のある目を向けた。

 

「証拠なんて何処にあるのよ。会社にどれだけの人数が出入りしてると思ってるんですか?17階はまだしも、ここ15階はお客様も含めて毎日、登録に来る人、仕事の話に来る人、スキルアップ目的に来る人、会社の中で一番多く人が出入りする

ハンベエは

ハンベエは、その光景にはもう目もくれず、ただじっと、仲間の逃げ道を作ろうと必死に立ち働くアルハインドの兵士達の動向を窺い続けた。タゴゴダの丘とタゴロローム要塞前の通路を回復するために、アルハインドの兵士達は必死に働いていた。何百、何千もの兵士が、道を塞いでいる岩や土砂をどけようと、あがくように動き回っていた。岩を落とされて、通路を塞がれたのではあるが、草原との行き来が完全に遮断されたわけで服用優思明かった。草原側から、岩をよじ登り、どうにかこうにか、火炎地獄から逃れてくる兵士は、何人かはいた。だが、そんなものは焼け石に水にもならなかった。草原前まで突入し、タゴロローム側の罠に掛かった軍団の救出はほとんど不可能であったろう。例え、道を塞いでいる岩を退かせる事ができても、その時は、最早、手遅れになっている事は誰の目にも明かな状況であった。だがしかし、だからと言って、塞がれた道の向こう側で、のた打っている味方達を捨てる事などできないのである。一人でも、例え、たったの一人であっても、仲間を救うのだ。アルハインド兵達は、そう言っているかのように、必死に働き続けていた。大きな岩を退かせるにも、満足な器具もない、せいぜい丸太で突くぐらいである。水を運ぶのに、水瓶も無く、手のひらしか使えるものしかないような、そんなもどかしさと、今も炎に包まれもがいている仲間の苦境に、ジリジリと己の身を焼かれるかのような焦りを感じながら、アルハインド兵達は必死で通路の回復作業を行った。そういうふうに見えた。ハンベエは、仲間たちと慎重に、岩山を下り、道から15メートルくらいの高さのところまで、来ていた。アルハインド勢には、ハンベエ達が岩山を登って逃げた事や、追撃に出て返り討ちに遭い、彼等を取り逃がしている事を知っている者もいたはずであるが、とっくに逃げ去ったものと思っていたものか。それとも、通路回復作業以外の事を顧みる余裕が無いのか。両側の岩山への警戒は希薄であった。本来なら、更なる岩山からの落石攻撃を警戒して、この通路から避難していてもよさそうなものであった。このようなアルハインド勢の活動を見つめているハンベエ達の胸中は複雑であった。自らの部隊の一部を戦果のための犠牲とする作戦を冷然と行い、その犠牲を徹底して救う事なく、活用しきったタゴロローム守備軍。一方、最早絶望的状況の味方の軍勢を救うために、危険も顧みず作業を続けるアルハインド勢。元々、タゴロローム守備軍に入隊の始まりから、良い感情を持っていないハンベエである。逆に、アルハインド勢の味方になってやりたい気もしてきたりするのだ。それが、アルハインド勢の大将の首を狙って息を潜めているのである。ハンベエは自分の置かれた状況に大いなる皮肉を感じていた。だが、今は生き延び、タゴロローム軍に還らなければならない。このまま、何もかも放り出して、戦場から立ち去るという選択肢も無いではない。だが、それでは、来るべきゴロデリア王国内乱に参加するつてを失ってしまう。・・・ハンベエはそう考えていた。頭の隅にあるのは、ステルポイジャンの副官におさまっているガストランタを戦場で討ち果たし、師フデンの落とし前を着ける事である。また、今いる班員達も、班長の立場としては生きて還らせるのが本分であろう。その事がハンベエをタゴロローム守備軍に縛り付けていた。「あれが、敵の大将のようですよ。」ヘルデンが、ハンベエに小声で囁いた。「あれが・・・何故分かる?」

ハンベエはそう言って、ドルバスを注意深く見つめた

ハンベエはそう言って、ドルバスを注意深く見つめた。どこかに付け入る隙はないか窺うかのように。その岩のような男ドルバスはチラリと見たが特に気負う事もなく、帯剣を外し、 コキコキと体をほぐし始めた。その辺にいた兵士達が、見物に集まって来た。そして、地面に円を描き、company registration hong kong俵を作った。相撲は何とかの国の国技とか言われているが、どこの国にも似たような格闘技はある。ハンベエ達の行う相撲のルールも極めて簡単、相手を円の外に出すか地面に倒せば勝ち。噛み付き以外は何でも有りの素手の闘いであった。ハンベエはドルバスから目を離さず、『ヨシミツ』と『ヘイアンジョウ・カゲトラ』を外して、そっと地面に置いた。それから、手裏剣も懐から出して、その横に置いた。二人は黙ったまま、円の中央に進んだ。ハンベエは左右の足元を確かめるように見た。それは、立ち会いを右に変わるか、左に変わるか、思案しているかのようであった。ドルバスは小憎らしいほど落ち着いた表情でハンベエを見ている。ハンベエは足元に視線を落として、できるだけドルバスの目を見ないようにして、大きく息をした。両者は膝を落とし、やや前屈みになり、片方の肩を突き出すようにして構えを取った。「始めっ。」頃は良し、と見たのか、ハリスンが開始の声をかけた。ハンベエが大きく動いた。右に飛ぶのか、左に飛ぶのか、・・・だが、ハンベエは大きく後ろに飛んでいた。落ち着いて、ゆっくり前に出てくるドルバスに対し、ハンベエは助走をつけて、凄まじい速度で突進した。ゴンッ、円の中央で岩と岩とがぶつかるような、鈍くて恐ろしい音がした。ハンベエが頭から突っ込んで、自分の頭をドルバスの頭にぶち当てた音である。恐らく、両者とも目から火が出る思いをした事であろう。頭をぶつけると同時に、ハンベエは右肘を固め、上半身を捻りざま、ドルバスの顎に肘打ちをくれた。瞬間、ドルバスの身体が揺らいだように見えた。間髪を入れず、ドルバスの足首目がけてハンベエ渾身の蹴たぐり。ドルバスの巨躯が宙に浮いたように仰のけざまにひっくり返った。見物人達はしばし息を呑み、信じられないものを見たかのように静まり返っていた。ドルバスはひっくり返ったまま、ピクリとも動かない。目を回してしまったようだ。ハンベエも凍り付いたように円の中央に立ち尽くしていた。頭からはいつの間にか血が流れ、恐ろしい顔付きになっていた。その顔付きの恐ろしさは、周りで見ていた見物人が目を合わせた拍子に、くびり殺されるのではないかと首筋に寒気を覚えたほどである。しばしの静寂の後、ようやくハンベエは思い出したかのように、大きく息を吐き出した。それから、地面に置いた物を身に付け直した。頭が痛みでくらくらしていた。どうしても、負けられない闘いであった。もし、背負っているものが無かったら、ハンベエは自分の頭突きの衝撃で失神していただろうと思った。噴出したアドレナリンの量で勝ったような闘いであった。懐から布を出し、頭から流れる血を止めながらハンベエは、「まことに残念ですが、中隊長殿とこの刀は縁が無かったようですな。」と努めて穏やかな口調で言った。口調は穏やかだが、形相は凄いし、闘いの余韻か、殺気が全身からほと走っているし、ちょっと近寄りがたい雰囲気である。 ハリスンはハンベエから目を逸らし、「この役立たずめ。」と忌々しげに倒れたままのドルバスの体を蹴った。ハンベエは不快げに背を向けて自分の宿営に足を向けた。ハンベエがハリスン達のところから、少し離れたところまで歩いて来ると、後ろから血相変えて追いかけて来たルーズがハンベエの腕を掴むなり、「この野郎。この俺に恥掻かせやがって。」と怒鳴った。ハンベエはうるさげにその腕を振り払った。ルーズは、たたらを踏んで尻餅をついてしまった。軽い野郎だ。

神仏を信じないハンベエであったが

神仏を信じないハンベエであったが、その辺りの機微は分かっていた。そして、倨傲不遜、何者にも心を屈しないと心中深く決意しているが、感謝すべき者には素直に感謝できる、そんなハンベエであった。ロキの寝息を確認したハンベエは、愛刀『ヨシミツ』を手にして、静かに中庭に出た。朱古力瘤朝の鍛練である。体が軽い。何だか、今までよりずっと早く動けている気がする。ハンベエは思った。(錯覚か?・・・いや、間違いない。俺は、山を降りた時より、強くなっている。いや、イザベラと対峙した時よりも明らかに強くなっている。)イザベラとの闘いが新しい力を引き出したのだろうか?ハンベエはどうやら、さらにレベルアップしたらしい。ハンベエのレベルが上がった・・・らしい。 病を克服したハンベエが鍛練に勤しんでいる頃、ゴロデリア王国宰相ラシャレーの執務室では、毎度お馴染みの『声』との会話が行われていた。飽きもせず御苦労な事である。「確か、ハンベエは病に倒れたとの報告であったの。・・・さっき中庭でピンピンして、刀を振り回しておったぞ。どうなっておるのじゃ。」「それなら、私もさっき見ましたな。全くもって得体の知れん男ですな。ただの風邪だったんですかな。」「ただの風邪を病に倒れたとその方は言うのか?」「いやいや、参りましたな。昨日迄のやつれ方と言ったら、それはもう幽鬼のようで、生きてる人間の雰囲気ではありませんでしたがな。こちらもわけが判りませんな。直ぐにもくたばるかと期待していたのに、一晩で元気溌剌になりましたな。全く予想をことごとく裏切る、迷惑極まりない男ですな。」「ふん、その方の話を聞いていると、益々ハンベエが化け物じみた男に思えてくるわい。」「実際、あれはどうみても化け物ですよ。しかし、王宮内では至って大人しく静かにしているようですから、元のように、触らぬ神に祟りなし戦術で見張って置きましょう。」「ふむ、まあ良かろう。それで、イザベラの行方はどうなったのじゃ。」「生憎な事に全く分かりませんな。」「その方の給料、減らしてもいいかのう。」「それは、困りますな。」「困るのなら、本腰入れて捜すのじゃ、そうでないと、その方のこれまでの功績もパーじゃ。」「パーですか?」「うむ、わしの我慢にも限度がある。」「しかし、そのイザベラは、例の化け物のハンベエも取り逃がしたほどの、これ又、化け物ですぞ。中々簡単に行かないものと考えますな。」「厳命する。早う、捕えて誰がエレナ王女の命を狙ったのか明らかにせい。」「はて?・・・まことに恐れ多い事ですが、宰相閣下には、エレナ王女が居なくなった方が何かと都合が良いのではないですかな?」「・・・馬鹿め、見損なうな。ワシは誰の家来ぞ。王女が暗殺されるような事があったら、国王陛下に顔向けできんではないか。」「・・・しかし、ゴルゾーラ王子にとっては競争相手が消えて、ラッキーと考えますな。」「まさか、その方、今回の王女暗殺未遂に関与しているのではないな?」ラシャレーの声音が変わった。普段から愛想の良い物言いをする男ではないが、執務室の空気が凍るかと思われるほど、恐ろしい声音であった。「いえいえ、閣下の指図無くしてはそんなとんでもない事はしませんな。しかし、閣下のお心がそうであったとは知りませんでしたな。今から、イザベラの件は私が陣頭指揮を取ることにしますな。」「そういたせ。」「しかし、そうだとすると、ハンベエは閣下にとって殊勲者という事になりますな。」「そうだな。しかも風呂好きな事といい、嫌いな奴ではないわい。」「いっそのこと、真剣にこちら側に勧誘しますかな。」「いや、放って置け。」さて、ハンベエはくしゃみを幾つかしても良いものだが、自分の噂話など露知らず、今日の鍛練にはいつになく熱がこもっていた。見える、動ける。これなら、コウモリだって楽に斬り捨てられそうだ。(飛んでいるコウモリを斬る事は至難の技で、佐々木小次郎の『燕返し』もコウモリには通用しないと言われている・・・らしい。)

土方に怒られるだ

土方に怒られるだろう事が目に見えてわかったのだろう。栄太郎は「ご愁傷様」と軽く言うと、紫音の腕を掴んでヒラヒラと手を振った。「え…と…」「なぁに?」何と言えばいいのか、言いよどむ紫音に、栄太郎がしらっと首を傾げる。そこに浮かぶ笑顔に黒いものを感じるのは何故だろう。何の文句も言わせない、と暗に言われてる感じだ。紫音は戸惑いながらもそのまま栄太郎に引かれるままついていく。

栄太郎は、未だに紫音の肩を抱いていた…。

**********

「原田…どういう事か説明しろ」company formationり、土方を呼んだ原田は、先ほどの辻斬りの死体の横で苦笑いを浮かべる。土方は腕を組み、冷たい視線を突き刺しながら、死体の顔を確認した。土方が原田と呼ぶ時は仕事の時。原田は頭をかきながら答える。「いや、俺もよくわからねぇんすけど…」「わかんねぇならわかってる事だけ話せばいい。お前ぇらは置屋の帰りに、町人の死体を発見したんだな?で、どうしたんだ?」眉間にシワを深く刻んで、土方は死体を仰向けにし、着物や、刀を探る。原田はその様子を見ながら事の流れを一つ一つ話していく。「まだ死体はあったかかったから町人は新八に任せて、俺らは辻斬りを探しに行ったんす」「俺ら?他は誰だ?」「平助と、栄太郎って奴っす」「お前ぇ…町人を巻き込んだのか?」「いや、危ねぇから探しがてら送ってこうと思って。で、小便してたら、先に行くっつって置いてかれて…何か叫び声が聞こえたから慌てて見にいったら、音がいて」額に刺さった小太刀を抜いて、土方は振り向いた。「紫音が?」「そうっす」「あいつならさっきまで屯所にいたぜ?

紫音がやったのか?これは」小太刀を見せて、土方が問う。辻斬りの件は今しがた話したばかりだ。紫音なら、やられる前にやっただろうな。思いながら原田を見ると、うーんと唸っていた。「いや、栄太郎が言うには、別の奴だっつってて、逃げたって言うから、平助が追いかけてったんだけど」「だからこの場にいねぇのか」「俺はてっきり田中がやられたんだと思ったんだけど、栄太郎がこいつが辻斬りの正体だって…」それを聞いて、土方の目が鋭く光った。しばらく考え込むように顎に手をやると、土方はおもむろに立ち上がる。「副長」そこへ山崎がかすかに息をあがらせて土方の傍に近寄る。視線を死体に向けたまま、土方は山崎の報告を待った。「…どうやら当たりです。田中は見廻組の間者ですね。

…その木札の根付が証拠です。内部の様子を見る限りはまだ知らないようですが」「はんっきな臭ぇ奴らだぜ。辻斬りの正体は、こいつに間違いねぇな」吐き捨てるように言って、土方はニヤリと笑った。間者を入れてるだろう事はわかっていた。ただ、その間者にこんな馬鹿を使ったのが間違いだったぜ。常日頃から上から目線な事が気に入らない土方にとっては、高飛車な鼻を折ってやるいい機会だった…。

「はい?今何て言いました?」聞こえてなかった訳ではない。あまりにも理解出来ないので、聞き直した紫音。そんな紫音に、けだるそうにしながら栄太郎はため息をついた。「基本的に何度も言うのは面倒なんだけど…仕方ないなぁ。だからね、楓の初めてを僕にちょうだい?」「……………」やはり聞き間違いではない。紫音はまさに目を点にさせて栄太郎を見た。

「そ

「そ。最近辻斬りが出てるから気をつけなよ」「だから町中がピリピリしてたんですね。大丈夫です、体はほぼ元に戻ってますから」「ふふ…殺さないように、って言ってるの。京都見廻組だったらいいよ、やっちゃって」栄太郎の言葉に、紫音は呆れたように息を一つ吐く。紫音の一挙一動が楽しい。見ていたかったが、約束の刻限を過ぎている。栄太郎は残念な気持ちを押し込んで、宿を後にした。それを見送り、紫音も動き出す。香港買基金が何をしようとしているのか、新撰組ならば瑣末でも何らかの情報を得ているかもしれない。久しぶりの屯所を目指し、夜の京へと繰り出した。***********

「お前、何者………って、紫音やんか!!」「クスクス…山崎さん、声が大きいですよ。せっかく歳チャンを驚かせようと忍んできたのに」首に突き付けられた針をやんわりとどかし、紫音は顔を隠していた頭巾と布を取った。そう、紫音は新撰組屯所の屋根裏に忍び込んだのだ。そこを早々に山崎に見つかり、まるで初めてここに来た日のようだと笑みを交わした。「何やその様子やったらもう大事ないんか?」「えぇ、その節はどうもありがとうございました」「えぇってえぇって!そんな畏まんなや~。いろいろ楽しませてもろたし」カラカラと笑う山崎。尊敬する土方の崩れた姿など滅多に見られるものではない。

「…何してるんですか?」「ん?捕縛やけど?」にこやかな笑顔でぐるぐる巻きにする山崎に、紫音は爽やかな笑顔を向けた。普通に会話していたというのに、やる事は相変わらず抜け目ない。簡単に解かれた事を踏まえているのか、容易には解けないよう、縛る山崎にもどうなってるかわからない程のぐるぐる巻きだ。「副長、怪しい奴捕まえました」「山崎か。よくやった、連れてこい」天井から室内の土方に声をかければ、筆を止めて見上げる土方。山崎はどうなるのか楽しみにしながら天井から紫音を投げ落とす。ドサッ受け身も取れずに落とされ、紫音は心内で山崎を呪った。「屯所に侵入するたぁいい度胸じゃねぇか」威圧感たっぷりに言いながら、土方は片膝をついて、侵入者、紫音の顔を上げさせた。

「こんばんは「……………山崎」「はい?」「俺ぁ幻覚を見てるようなんだが…お前ぇにはどう見える?」山崎は湧き出る笑いを堪えるのに必死だ。土方はしばらく紫音を見つめてから、まるで毛虫を扱うように筆でつついた。「ちょっと…あんまりな扱いですね」「本物ぉぉぉぉおっ!?」ひょいと顔を上げれば、土方は物凄い勢いで飛びのき、耳を塞ぎたくなる程の叫び声を上げた。「どうしたっトシ!!」「土方くん!?」スパァンと襖が開かれ、入ってきたのは近藤と山南。どうやら隣の部屋で囲碁の勝負をしていたようだ。チラリと見えた近藤の部屋から碁石が点々と続いていた。「近藤さん、山南さん。お久しぶりです」のんきに挨拶してみたものの、まるで芋虫のように巻かれた縄のせいで頭を下げる事も出来ない。「紫音くん!?」「これは驚いたね、元気だったかい?」驚き、声をかける二人。とりあえず解こうとは思わないんですね…。紫音ははぁ、とため息をついて、「とりあえず、刺客ではないので解いていただけませんか?」と願い出た。「おっそうだな、スマン」「ちょっと待てよ、近藤さん!!こいつ忍び込んできたんだぜ?そう簡単に解けねぇだろ」「土方くん…紫音さんは見知った仲じゃないか」小太刀を手に、すぐさま縄を切ろうとする近藤を止める土方、更にその土方を諌める山南。変わらずの様子に、紫音はくすくすと笑った。

でも、少し鈍感なところがある

でも、少し鈍感なところがある。誰とでも親しくなってしまうから、元カノの話も平気でする。きっと、私じゃなく依織に対しても、同じように元カノの話をしてしまうだろう。「そういえばこの間、久我匠って人が俺に会いに来たよ」「え!ウソ、本当に?」「あの人に、院内のリハビリセンターで俺が働いてるって教えたの、基金回報 あの人にわざと甲斐の存在を教えたのは、私だ。理学療法士で、院内のリハビリセンターに行けば会えると教えたのも私。でもまさか、あの人が本当に甲斐に会いに行くなんて、思わなかった。「俺に会ってみたかったらしい。七瀬を本気で口説いてる最中なんだって、宣戦布告されたよ」「あの人、かなり強引だからなぁ……」甲斐よりも、久我さんの方が圧倒的に行動力は勝っている。甲斐は自分の気持ちを優先することよりも、依織の気持ちを最優先に行動しようとしている。でも、あの人は違う。最優先にしているものは、何より自分の気持ちだ。周りにどんなに引かれたとしても、きっと彼は自分のペースを変えない。自分のために、行動している。私はそんな彼のことが、羨ましくて仕方なかった。「ていうかさ、あのイケメン何なんだよ。会いに来たって言うから、俺のことめちゃくちゃライバル視してるんだと思ったけど、すげぇ余裕そうな顔してたし」「あぁ、それはあの人の普通の顔がそういうムカつく顔してんのよ」余裕の笑みを浮かべた彼の表情に、何度イラついたかわからない。「桜崎、あの人と仲良いんだろ。頼むから、もう会いに来ないでって言っておいて」「別に少しも仲良くないけど、今度会うことがあれば言っといてあげる」私が再び彼にいつもの飲み屋で会ったのは、その日の夜のことだった。その日の夜、私は久し振りに夕食を自炊しようと冷蔵庫の中身を確認したけれど、中はほぼビールで埋め尽くされていた。「スーパー行かなきゃダメじゃん……面倒くさ」自宅の近辺には、食事が出来てお酒も飲める店が多い。一人で外食することには慣れているため、自炊は諦めてどこか近所の店で美味しいものを食べようと思い外に出る支度をした。軽く化粧を施し、ロング丈のワンピースにパーカーを羽織ったラフな服装にスニーカーを合わせる。「こんな感じでいっか。どうせ、誰にも会わないし」財布の入ったバッグを手に取り家を出る直前に、スマホが鳴った。見ると、久我さんからの着信だった。私は特に何も考えずに、電話に出た。「はい」「今日は来ないの?」「はい?」「僕は今着いたところなんだけど。君は今日、飲みに来ないのかなと思って」これは、誘いの電話なのだろうか。だとしても、今から地下鉄に乗ってわざわざすすきのまで繰り出すのは、スーパーに行くよりも面倒だ。「ちょうど今からどこかで食事しようと思ってたけど、すすきのまで行く気ないから。今日は近所で済ませる予定なの」「そっか、残念。いろいろ温泉の話が聞きたかったんだけど、じゃあまた今度」そのまま電話は、何の余韻もなく切れてしまった。依織を誘えばいいのに、なぜ私を誘うのだろうか。もしかしたら、先に依織を誘ったけれど体調不良の依織に断られたから私に声を掛けてきたのかもしれない。そう思うと、彼に一言文句を言ってやりたくなってしまった。近所で食事を済ませる予定が、急変更だ。私は結局、タクシーを拾いすすきのまで繰り出すことにした。すすきので飲むような格好ではないけれど、あの人に会うために服を着替えるのは何となく嫌だった。電話をもらってから二十分後に店に到着すると、久我さんは一人でいつものように飲んでいた。「こんばんは。ビールお願い。あとお任せでお腹が膨らむ食事も」

チラリと隣を見ると、楽しそうに笑う甲斐と目が合った

チラリと隣を見ると、楽しそうに笑う甲斐と目が合った。「何だ、もうバレてるんじゃん」甲斐のその言葉を聞いて、翼は喜びのあまり甲斐に抱きついた。「甲斐くんありがとう!姉ちゃんと付き合ってくれてありがとう!」「甲斐が依織の傍にいてくれるなら、わしも安心だ。依織、良かったな」私の家族はどれだけ甲斐のことが好きなのだろう。見ていて少し恥ずかしくなる。「もう、とりあえず翼、甲斐から離れてよ」「別にハグくらいいいじゃん」Accounting Services、何で私と甲斐が付き合い始めたってわかるの?」「甲斐くん連れて来るって聞いた時点でわかったよ。だって姉ちゃん、母さんに相談してたんでしょ?甲斐くんのことが好きだって」「ちょ……バカ!」慌てて翼の口を手で塞いだけれど、もう遅い。

恐る恐る甲斐を見ると、甲斐は意地悪な笑みを浮かべていた。「へぇ。お前、そんなに俺のこと好きだったんだ」「……調子に乗らないでね」「否定しないの?」「否定は……したくない」実家の玄関に、変に甘い空気が流れ始める。でもそんな空気に気付いたのか、祖父が邪魔するように口を開いた。「お前たち、イチャイチャするならよそでやってくれ。目のやり場に困るだろうが」そう言う祖父も、どこか嬉しそうだった。祖父に背中を押されてリビングに進むと、母がキッチンで料理を作っていた。「甲斐くん、いらっしゃい」「お邪魔します。これ、七瀬の家の近所に最近出来た和菓子屋の大福」「大福?ありがとう!うちの家族皆和菓子好きなのよ。さすが甲斐くんね」「志穂さん、前に大福が好きだって言ってたなと思って」母は初対面のときから甲斐を気に入り、以前から甲斐に自分のことを志穂さんと呼ばせている。オバサンと呼ばれるのも嫌だし、お母さんと呼ばれるのもおかしいから、名前で呼ばせているらしい。母の方が先に名前で呼んでもらっているなんて、今思えば少し悔しい気もする。「今お昼ご飯作ってるから待っててね。確か甲斐くん、好き嫌いないわよね?」「何でも食べれまーす」「私、ちょっと手伝ってくるね」甲斐に一言声をかけ、私は母の元に駆け寄った。「お母さん、手伝うよ。何すればいい?」「そう?じゃあ五人分のパスタの麺茹でてくれる?」「わかった」甲斐はリビングで翼のゲームに付き合わされている。祖父も甲斐と将棋をやりたがっていたが、どうやら翼に先を越されたらしい。好きな人と家族が、一緒に笑っている。その光景は、見ているだけで心が暖かくなるものだ。「甲斐くんと無事付き合うことになったのね」「あ……そうなの。今日は、甲斐がちゃんとうちの家族に交際の報告がしたいって言ってくれて」「わざわざ交際の報告に来てくれるなんて、律儀な子ね。普通は彼女の家族に会うなんて面倒なはずでしょ」パスタの具材を切りながら話す母は、家族の中で唯一浮かれていない様子だ。「確かに、普通なら絶対面倒だよね。私も甲斐の家族に会うことになったら、緊張するだろうしな……」遥希が私の家族に会ってくれたのは、同棲を始めてしばらく経ってからだったと思う。付き合っていた間、私の実家に行くのはあまり気乗りしない様子だった。きっと翼が懐いていなかったのも、気乗りしない理由の一つではあったのだろう。甲斐は私の家族とは既に親しい仲だから、この家に気軽に来れるのかもしれない。でもきっと、それだけではない。そもそも甲斐は恋人の家族に会うことを、面倒だなんて思うような人ではないはずだ。「甲斐くんと付き合えることになって、良かったわね」「……うん、良かった」「でも、彼は絶対に自分を裏切らないなんて思わない方がいいわよ」「え?」母は少し強い口調で、私にそう言った。