桜司郎は盃の水

桜司郎は盃の水面に山南の姿を見る。

 

沖田の心配をし、藤堂を案じて文をまめに送り、自身の手習いの面倒を見てくれた。

総長という過大な役職に悩みながらも、必死に隊で生きようとしていた。

 

何が彼の中で起きているのかは分からないが、去皺紋 桜司郎にとっての山南は、優しく暖かい人間性を持った上司だった。

 

 

「優しくて聡明、か。

確かにそうだな……」

 

土方の脳裏には、葛山を切腹させた時に"貴方が心配です"と言った山南の声が浮かぶ。

 

山南はいつでも非難ではなく、心配をしていた。それに気付かないうちに甘えていた自覚はある。

山南の優しさが心地良かった。

 

今回も、自分の心の悲鳴を察して隊務へ復帰しようとしてくれたのだと思っていた。

 

 

土方は盃を一気に傾ける。大きく息を吐いて、口の中にまとわりつくような不快な酒の臭いを打ち消した。

 

「だけどな、山南は俺のことを裏切ったんだよ」

 

土方はギリ、と歯を噛み締める。苦々しい表情を浮かべた。

 

"私にしか出来ないことが分かった"なんて言っておきながら、結局アイツは…山南は逃げたんだ…」

 

桜司郎は土方の弱音に驚きの表情になる。これを自分が聞いて良いものかと視線を彷徨わせた。

 

 

「違うな、俺に対する復讐のつもりなんだ。山南は、どうすれば俺が苦しむか知っていやがる…。アイツの思惑通りだ、苦しくて仕方ねェ」

 

土方は苦悩の表情で頭を抱える。

人間というものは、追い詰められた時に こうと決めると、それしか見えなくなるという。まさに土方はそれに陥っていた。

 

常に威厳を纏い、鬼の副長と呼ばれている土方も人の子なのだ。むしろ、この姿こそが本当の土方なのかもしれない。

 

そう思うと、土方に対する恐れが消えていく。そして彼が吐いた復讐という言葉に対して引っ掛かりを覚えた。

 

「副長、私の考えを申し上げても…?」

 

「何だ。言ってみろ」

 

土方が求めているのは同意であり、意見や答えではない。そう分かっているが敢えて桜司郎は発言を選ぶ。

 

「復讐…では無いと、思います…」

 

桜司郎はポツリと呟いた。土方は頭を抱えたまま、声の主を睨む。

 

「…復讐をするとしたら、土方副長が一番大切にしていた物を壊そうとするじゃないですか。副長の大切な物は、この新撰組でしょう」

 

例え山南が本気で土方を憎んだとすれば、その時は新撰組のことも見限るだろう。聡明な山南であれば、どうすれば隊内を崩すことが出来るのか理解している筈だ。

 

だが、それをしなかったということは、少なくとも土方に対する恨みの感情はないことを指す。

 

それを聞いた土方はハッと息を呑み、顔を上げた。そしてみるみる泣き出しそうな位に顔を歪める。「むしろ、山南総長は命を賭けてでも伝えたいこと、守りたいものがあったのでは無いでしょうか…」

 

「うるせえ…、うるせえうるせえッ!お前に、お前なんかに…俺たちの何が分かるッ!」土方はそう叫ぶと、盃を壁に叩き付けた。だが桜司郎は怯むことなく真っ直ぐに土方を見る。

 

土方が答えを求めて苦悩を吐き出した訳ではないということは、分かっていた。それでも今、少しでも凝り固まった感情を解しておかなければ、いざ対面した時に取り返しのつかない事になるかもしれない。

 

桜司郎はそう考えていた。「…分かりませんよ。私に分かる訳が無いじゃないですか。副長の方が、山南先生の事をご存知でしょうに」